東京高等裁判所 昭和63年(う)155号 判決 1988年6月09日
主文
原判決を破棄する。
被告人を懲役二年に処する。
原審における未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入する。
この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予する。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人佐藤克洋、同藤田謹也、同柳原控七郎連名提出の控訴趣意書及び控訴補充趣意書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
控訴趣意中事実誤認の主張について
所論は、(一)原判決は、本件行為について正当防衛の成立を否定し、過剰防衛を認定しているが、被告人は、第一撃の刺突行為までの間においても、その生命、身体に対し継続的に重大な危害を加えられる危険にさらされていたうえ、その後はそれまでよりも生命、身体に重大な危害を加えられる危険性が飛躍的に増大しており、このような状況下における本件行為は、正当防衛に該当して罪とならず、(二)そうでないとしても、被告人は、Aにナイフを奪われれば殺されるという、自己の生命に対する急迫不正の侵害があると思つて反撃行為に及んでいるのであるから、被告人の本件行為は、誤想防衛として故意を阻却して、罪とならないし、(三)そうでないとしても、被告人の本件行為は、凶器を携帯してホテルに侵入する者を防止し、あるいは故なくホテルに侵入した者、要求を受けてホテルから退去しない者を排斥しようとするときに行なつたものとして、盗犯等の防止及び処分に関する法律一条一項二号、三号、二項を適用ないし準用すべき場合に当たるから、罪とすることができず、いずれにしても、被告人を有罪とする原判決は事実を誤認したものである、というのである。
一そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果を合わせて検討すると、関係証拠によれば、本件の経過はおおむね次のとおりであつたと認められる。
1 被告人は、事務所に所属して客の待つホテルに赴いて売春をする、いわゆる「ホテトル嬢」をしていたものであるところ、事務所の経営者に指示されて、昭和六二年四月一五日午後六時過ぎころ東京都豊島区東池袋所在のホテルテアトル○○○号室に赴き、同室内で、客のAと二時間コースのダブル、計四時間の遊びを約束して、その規定料金六万円と交通費一万円を貰い、事務所に電話でその旨を連絡したこと、
2 Aは、あらかじめ右の部屋に、切出しナイフ(刃体の長さ約八センチメートル、当庁昭和六三年押第四一号の1、以下単に「ナイフ」ということもある。)、電動性具(同押号の3)、理容はさみ、ドライバー、ガムテープ、物干し用ひも、ロープ、洗濯ばさみ、浣腸薬、ゴム手袋、八ミリビデオカメラ、ポラロイドカメラ、三五ミリカメラ等を持ち込んでおり、被告人が事務所への連絡電話をかけ終わると、いきなり被告人のみぞおちを殴打し、ひるむ被告人を窓際のベッドの上に押し倒して押さえ付け、「静かにしろ、静かにしないと殺すぞ。」などと言つて、右ナイフで被告人の右手背を一回突き刺したり(この傷について、被告人は逮捕後一針の縫合手術を受ける。)、ナイフを被告人の顔面近くに突き付けたり、被告人の両足首、両手首をそれぞれ帯やガムテープで縛るなどしたうえ、被告人をドア側のベッドに移らせ、午後六時三〇分ころから午後七時五〇分ころまでにかけて、「お前の恥ずかしい姿を見てやるから、いいな。」「おとなしくしていれば、痛い目には合わせない。」などと言つた後、三脚上に据え付けた八ミリビデオカメラを自動撮影できるようにセットして、これで自己の行為や被告人の姿態を撮影し続けながら、被告人に自己の陰茎、陰嚢、肛門等を繰り返しなめさせ、被告人のブラウスを引つ張り開け、ブラジャーを引き下ろして、乳房をもてあそぶ、ブラウス、スカート、スリップ等を脱がし、ナイフでパンティーストッキングを切り裂き、パンティを引き下ろして、指で陰部をもてあそび、更に、ナイフでパンティを切り取り、ほぼ全裸状態にした被告人の右手と右足、左手と左足をそれぞれ帯で縛り直したうえ、電動性具を使つて執ように陰部をもてあそぶなどし、その間ビデオカメラのほか、時々ポラロイドカメラ、三五ミリカメラでも同様撮影したこと、
3 被告人は、Aから思わぬ暴行や脅迫を受けて、驚きかつ畏怖し、同人の要求するままにしていたが、落ち着くに従つて、同人の言動から、その要求を忍受しておとなしくしている限り、同人が粗暴な振舞いに出ないことを知る一方、同人からこのような理不尽で異常な仕打ちを受けるいわれはなく、機会を見付けて逃げ出したいと考え、その方途を思いめぐらしつつ様子をうかがい、同人が電動性具を使い始めると、同人の歓心を買うため、快感を覚えてきたかのように振舞い、身体を動かすうちに手足を縛つていた帯がほどけてくると、同人がベッド上に放置していた前記ナイフをひそかに枕の下に隠し入れたこと、
4 午後七時五〇分ころ、Aは、なおも電動性具を使つて被告人の陰部をもてあそび続けたうえ、被告人が快感を感じているものと信じ、被告人に卑わいな言葉や屈辱的な言葉を次々に言わせたため、被告人は、憤慨のあまり、もはやAの要求のままになつていることに堪えられなくなり、ドアの戸締まりの状況などが分かつていなかつたが、前記ナイフで同人の腹を刺せば同人がその場にうずくまり、その隙に同室から逃げ出すことができるであろうと考え、ひそかに枕の下に左手を差し入れてナイフを握り、同人の隙をうかがううち、同人が被告人の右後ろに密着して電動性具で陰部をもてあそびながら、体を傾けてよそ見をした瞬間をとらえ、Aの左腹部をナイフで一回突き刺し、腸間膜及び腹膜を損傷する創洞の長さ約八センチメートルの腹部刺創(鈴木裕子ら作成の鑑定書記載のシ創、以下創傷をこの例により表示する。)を負わせたうえ、すぐに飛びのいてAに背を向け、裸姿でナイフを持つたままドアの方に逃げ出したこと、
5 しかし、Aは、ナイフで刺されるや、被告人を突き飛ばすようにしたうえ、直ちにそのあとを追い、ドアの直前で、被告人の前に回り込んで立ち塞がり、被告人ともみ合い、被告人の持つナイフで、左大腿上部に創口の長さ約7.5センチメートル、創洞の長さ約五センチメートルの刺切創(ハ創)を負うなどしたのに、被告人が反転して部屋の奥の方に逃げると、すかさずそのあとを追い、二つのベッドの周りやその上で、逃げ回る被告人を捕まえて押さえつけ、被告人からナイフを取り上げようとし、その間に、被告人の左こめかみ付近に噛み付く、髪をつかんで頭を壁に打ち付ける、首に手を回す、頭を殴るなどし、被告人が再度ドアの方に逃げると、なおもあとを追い、またもドアのところで被告人の前に回り込み、間もなくドアにもたれながら崩れ落ち、「殺人犯にしてやるぞ。」「殺人犯だぞ。」などと言つた後、出血多量で失神したこと、
6 被告人は、Aが右のように追い回してくる間、逃げ回り、同人の手を振り払い、体を押し返すなどしたほか、同人が死亡するかもしれないことを認識しながら、同人の胸部や腹部をナイフで数回強烈に突き刺したこと、しかし、同人がドアに寄りかかつて失神すると、フロントに電話をかけ、「助けて、早く、死んじやう。」「救急車を、早く早く。」などとAを救助するように頼んだこと、
7 Aは、被告人から右のようにナイフを突き刺されたことにより、左肺を損傷する創洞の長さ約九センチメートルの前胸部刺創(キ創)、第五肋骨を切断し、左肺を損傷する創洞の長さ約五センチメートルの前胸部刺創(ク創)、第五肋骨に切込みを作り、心臓に刺入する創洞の長さ約七センチメートルの前胸部刺創(ケ創)、肝臓を貫通し、胃を損傷する創洞の長さ約9.6センチメートルの腹部刺創(コ創)、同様の創洞の長さ約一一センチメートルの腹部刺創(ザ創)、肝臓を貫通し、胃小彎部脂肪織を損傷する創洞の長さ約一二センチメートルの腹部刺創(サ創)を負い、その他にも前記シ創、ハ創等いくつかの刺創、刺切創、切創などを負い、午後九時二分ころ、主に心臓、左肺、肝臓等についての胸腹腔臓器刺創に基づく失血により死亡したこと、
8 被告人も、右闘争の過程において、自己の持つていたナイフで左大腿部に切創を負い、一三針の縫合手術を受け、全治まで約二週間を要したこと、などが認められる。
なお、所論は、被告人がAを意識的にナイフで刺したのは、最初に腹部を刺したとき、窓際のベッド付近で同人から首に手を回しナイフを取り上げようとされたため、振り向きざま胸部を刺したときの二回だけであり、他の同人の胸部及び腹部にある創傷は、同人が被告人にぶつかつて行つたことにより、結果として被告人の握つていたナイフで刺された可能性が大きい旨を主張し、被告人は、捜査段階から終始、Aをナイフで刺したことで覚えているのは右の二回だけであると供述している。しかし、シ創が被告人の最初の意識的な刺突行為によつてできたものであることは、疑問の余地がないほか、Aの胸部及び腹部にあったキ、ク、ケ、コ、ザ、サの各創は、それらが厳密にどの時点でできたものかは明らかにし難いが、事態の推移からみて、被告人が、Aに追い回されている間に同人に負わせたものであることが明らかであるとともに、そのほとんどがナイフの刃体の長さを超えるような長い創洞を持つているうえ、狭い範囲に集中的に存在していることなどからいつて、被告人の意識的な刺突行為によつて生じたものであると認めることができる。
以下、これらの事実関係を前提にして、所論の点を順次考察する。
二正当防衛の成否について
(1) 原判決は、「罪となるべき事実」において、被告人の本件行為は「自己の身体及び自由に対する急迫不正の侵害に対し、自己の権利を防衛するためになしたもので、防衛の程度を超えたものである。」として過剰防衛を認定し、「弁護人の主張に対する判断」において、右認定の理由を詳述しているところ、その理由中には部分的に首肯し難い箇所があるものの、被告人の本件行為が過剰防衛に当たるとの判断は正当として是認することができる。所論にかんがみ更に説明を加える。
(2) 被告人の本件行為が、Aの急迫不正の侵害に対し、自己の権利を防衛するためになしたものであることは、原判決の認定判示するとおりであると認められる。
(3) そこで、被告人の本件行為が防衛のためやむことをえないものであつたか否かをみると、なるほど、Aは、身長約一七二センチメートル、当時二八歳の男性であるのに対し、被告人は、身長約一五八センチメートル、当時二一歳の女性であつて、体力的にAより劣勢であつたこと、被告人は、本件犯行の一時間余り前にはAから、殴る、ナイフで突き刺す、ナイフを突き付けて脅すなどの強力かつ露骨な暴行や脅迫が加えられ、その後も手足を縛られて監禁状態に置かれ、わいせつ行為を強要されていたこと、Aは、被告人から第一撃を受けた後被告人を追い回している間、終始機敏に動いて攻勢を取り、被告人は守勢に回つて、恐怖、驚き、怒り、興奮等の錯綜した心理状態の中で、必死に逃げあるいは応戦していたことなどの事情はあるが、他面次のような事情も認められる。
すなわち、被告人の最初の刺突行為については、そのころ被告人は、監禁状態に置かれていたとはいえ、それ以上に強力な暴行を加えられていたわけではなく、そのような状況下でわいせつ行為を強要されていただけであり、被告人において、Aの言動、表情等から同人に無気味なものを感じ、更にどのようなことをされるかもしれないという不安を抱いていたことは否定し難いが、生命にまで危険を感じていたとは認められないこと、右の一撃は、先端の極めて鋭利な切出しナイフで、わいせつ行為に熱中する同人の腹部を狙いすまして強く突き刺した危険なものであること、被告人は、自らの意思により、「ホテトル嬢」として四時間にわたり売春をすることを約して、Aから高額の報酬を得ており、原審検察官が主張するように、これにより被告人が性的自由及び身体の自由を放棄していたとまではいえないが、少なくとも、Aに対しら通常の性交及びこれに付随する性的行為は許容していたものといわざるをえないから、被告人の性的自由及び身体の自由に対する侵害の程度については、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論ずることはできず、相当に減殺して考慮せざるをえないことなどの事情がある。
次に、その後被告人がAから追い回されている間にした刺突行為については、それが未必的にもせよ殺意をもつて、右のような危険なナイフで繰り返し強烈に行われ、同人に対しキ、ク、ケ、コ、ザ、サの各創のような重傷を負わせ、間もなく同人をその場で失神させたうえ、約一時間後には失血死させたものであること、Aは、機敏かつ一方的に被告人を追い回し続けていたとはいいながら、素手であつたうえ、被告人は、守勢に終始しながらも、Aに対しよく応戦していて、その間同人からナイフを奪い取られたようなことはなく、同人にナイフを取られない限り、被告人の生命までもが危険となることはなかつたこと、Aの右のような追撃は、被告人のAに付する前記の第一撃が、同人を刺激して激昂させ、これを誘発したといえなくもないことなどの事情があり、これらの事情もまた被告人の行為の違法性を判断するに当たつて考慮に入れざるをえない。
なお、被告人は、捜査段階及び原審、当審各公判を通じて終始、Aにナイフを奪われれば殺されると思つていた旨供述しているところ、被告人は、当初Aからナイフで手を刺され、ナイフを突き付けられて「静かにしないと殺すぞ。」などと脅されていたうえ、異常ともいえるわいせつ行為を受け続け、ナイフで腹部を刺せば、同人がひるんで逃げ出す機会が得られると思い、そのような挙に出たのに、同人がひるむことなく、敏速かつ執ように被告人を追い回し、被告人のナイフで受傷して血にまみれながらも、被告人の逃走や抵抗を制圧しようとしていたことが明らかであり、Aのその行動には、自己の生命の安否をも省みることなく、被告人を逃がすまいとする異常なまでの激情と執念とが看取されるのであつて、実際にAが被告人からナイフを奪い取つた後どうするつもりでいたかはともかく、被告人がナイフを奪われれば殺されると思つたというのは、まことに無理からぬところであつたと認められ、原判決が被告人の右供述を措信できないとしたのは支持し難い。もつとも、被告人がAからナイフを奪い取られたことがないことは、前記のとおりであり、その限りで被告人の懸念は現実化するに至らなかつたということができる。
そして、これらの諸事情を総合し、法秩序全体の見地からみると、確かにAの側に被告人の権利に対する侵害行為のあつたことは否定し難いところであるが、本件の状況下でこれに対し前記のような凄惨な死をもつて酬いることが相当であるとは認め難く、被告人の本件行為は、前後を通じ全体として社会通念上防衛行為としてやむことをえないといえる範囲を逸脱し、防衛の程度を超えたものであると認めざるをえない。
三誤想防衛の成否について
被告人は、原審公判において、Aに対し第一撃を加えた際にも、最終的には殺されると思つていた旨を供述しているところ、被告人のあげる根拠に首肯できるものはなく、事態の客観的状況に照らしてみても、当時被告人がその生命までもが危険な状態にあると思つていたとは認め難い。また、前記のとおり、被告人がAから追い回されていた際、同人にナイフを奪われれば殺されると思つていた旨の捜査段階及び原審、当審各公判における供述は、その信用性を否定することができないが、被告人は現実にはナイフを奪われておらず、その限りで被告人の生命が危険に瀕したことはなかつたうえ、当時被告人がそのような客観的な状況や自己の行為内容について誤つた認識を有していたとすべき事情は格別見当たらない。そうすると、被告人の主観的な認識においても、自己の生命を防衛するためAの生命を絶たねばならないような状況があつたとは認められず、被告人のAに対する一連の刺突行為が、防衛の程度に錯誤のある誤想防衛の場合に当たるとすることはできない。
四盗犯等の防止及び処分に関する法律一条の適用ないし準用の当否について
なるほど、Aは、凶器となるナイフを携帯したうえ、呼びつけたホテトル嬢に対し暴行、脅迫等を加えてわいせつ行為を行う目的で前記ホテルの客室に入つていたものであることが明らかであるが、被告人の本件行為は、同法一条一項二号の「凶器を携帯して人の住居又は人の看取する建造物に侵入する者を防止せんとするとき」、同項二号の「故なく人の住居又は人の看取する建造物に侵入したる者又は要求を受けてこれらの場所より退去せざる者を排斥せんとするとき」のいずれにも該当しないことが明白であり、また、これらを準用すべき場合であると解すべき格別の事情も見出されないから、被告人の本件行為は同条一、二項所定の正当防衛の特則に該当しないものというほかはない。
五以上のとおりであるから、原判決には所論のような各事実の誤認はなく、論旨は理由がない。
控訴趣意中量刑不当の主張について
所論は、被告人を懲役三年の実刑に処した原判決の量刑は重過ぎ、被告人に対しては刑の執行を猶予するのが相当である、というのである。
そこで、前同様検討すると、本件は、既に述べたとおり、ホテトル嬢をしていた被告人が、客のAから約束外のわいせつ行為等を忍受させられ、これに堪え切れずに逃げ出そうとして、隠していたナイフで同人の腹部を刺したところ、予期に反して、同人が追い回してきたため、未必の殺意をもつて、更にナイフで同人の胸部や腹部を突き刺し、同人を死亡させたものであつて、過剰防衛に該当する事案であるところ、犯行の態様は凄惨であり、犯行の結果は人一人の命を奪うという重大なものであるうえ、社会に及ぼした衝撃の程度にも看過できないものがあり、また、被告人が売春をするためにホテルに赴いたことが本件のきつかけをなしてもいることなど、被告人の刑事責任を考えるうえで軽視することを許さない事情がある。
しかしながら、本件犯行の原因を作つたのは被害者のA自身であり、同人は、計画を練り、用意周到に準備を整えて被告人を待ち受け、計画に従つて、被告人に対し暴行及び脅迫を加えて長時間にわたり異常ともいうべきわいせつ行為等を強要し続けたものであつて、被告人がこれを忍受しなければならないいわれはなく、堪え難い気持ちとなつたのも無理からぬところと認められる。そして、Aは、被告人から腹部を刺された後も、これにひるむことなく被告人を追い回して、被告人の反撃を誘い、とりわけ、Aは、その行動が機敏かつ執ようであつたうえ、ほぼ全裸で、何も持たない無防備の状態であつたのに、被告人がナイフを持つているのを知りながら、ナイフで傷付けられることなど意に介する様子もなく、無謀にも被告人に立ち向かつてきている。被告人がこのような予期しないAの激しい抵抗に遭つて、同人の手を逃れるのに必死となり、恐怖、驚き、怒り、興奮等によつて判断能力を狭められた中で、半ば本能的反射的にナイフを振るつて、度重ねて刺突行為に及んだことは、医師福島章作成の「(被告人)の精神状態に関する意見書」によつても明らかなところであり、これらの事情は同情に値し、量刑上斟酌されなければならない。これに合わせて、被告人が既に一年以上身柄を拘束されていること、被告人の反省の態度、経歴、年齢、家庭の状況等、被告人に有利な情状を酌むと、原判決の量刑は、刑期の点においても、刑に執行猶予を付さなかつた点においても、重過ぎるものと思料される。論旨は理由がある。
よつて、刑訴法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。
原判決が適法に認定した罪となるべき事実に法令を適用すると、被告人の原判示所為は刑法一九九条に該当し、所定刑中有期懲役刑を選択するが、右は過剰防衛に当たるから、同法三六条二項、六八条三号を適用して法律上の減軽をし、その刑期の範囲内で、被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して、原審における未決勾留日数中一五〇日を右刑に算入し、前記情状により同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官小野幹雄 裁判官横田安弘 裁判官井上廣道)